かつて光と理に満ちていたこの世界は、
如何にして「深淵」へと堕ちたのか。失われた歴史の軌跡。
はるか太古、この世界には清浄の光が満ちていた。
光の女神ロータシアは、美しい女性の姿をした神だった。彼女は大地を生み、海を満たし、空に星を掲げた後、人々のもとへと降りてきた。光の門を開き、その姿を現して、直接言葉を語りかけた。
女神が人々に授けたものは多い。大地を耕す術、季節の巡りを読む知恵、互いの思いを伝えるための言葉。そして、共に生きるための秩序。女神の教えを受けた人々は、獣のような孤独な生存から脱し、集まり、語り合い、助け合う術を知った。集落が生まれ、やがて街が生まれた。世界は豊かになっていった。
その頃、大陸アルカディアを満たしていた清浄の光は、今とは比べ物にならないほど強く、濃かった。朝露の一粒にも、土の一握りにも、女神の息吹が宿っていたと伝わっている。
しかし、人々の生活が豊かになるにつれ、世界を満たしていた清浄の光は、ゆっくりと薄れていった。
人が増え、街が広がり、文明が根を張るにつれて——何かが変わっていった。光が弱まったのか、あるいは人々の目が光を見えにくくなったのか、今となっては誰にも分からない。ただ、気づけばロータシアが光の門を開いて姿を現すことは、めったになくなっていた。
やがて、女神は現れなくなった。
完全に、静かに。まるで初めからそういうものだったかのように。
人々は戸惑い、嘆き、そして——受け入れた。女神の教えは既に言葉となり、習慣となり、街の礎となっていた。ロータシアは姿を消しても、その痕跡はあらゆる場所に残っていた。人々はそれを「伝承」として語り継ぐようになった。
女神を見た者は、もういない。しかし女神を信じる者は、今もいる。
ロータシアへの信仰はアルカディア各地に根付き、その形は土地ごとに異なる。山間の小さな村では焚き火を囲んで祈りの歌を歌い、都市の大聖堂では壮麗なステンドグラスを通して光を拝む。表現は違えど、すべての信仰者が共通して求めるのは同じものだ——闇の中でも、光は必ず在る、という確信である。
女神が去った後も、アルカディアはしばらく穏やかだった。
人々は大地を耕し、川から水を引き、山から石を切り出して街を築いた。争いがなかったわけではない。隣国との境界線を巡る小競り合いや、資源をめぐる緊張は幾度もあった。しかしそれは、人間という生き物の本性から来る摩擦であって、世界そのものを脅かすものではなかった。
女神から授かった言葉と秩序が、人々の間に深く根を張っていた時代。ロータシアへの祈りは習慣となり、信仰は文化となり、伝承は次の世代へと語り継がれていった。
静かな時代は、ある夜を境に終わりを告げた。
記録は乏しい。ただ、各地に残る証言の断片を繋ぎ合わせると、こういう絵が浮かぶ。大地の深い亀裂から、形を持たない暗黒が滲み出し、それがやがて一つの意志を持った存在へと凝集した。魔王アビスの誕生である。
アビスは最初から残忍だった。
その軍勢は人語を解さず、命の重さを知らず、ただ侵略と破壊のみを本能として動いた。アルカディアの辺境の村々が、ある日突然、瓦礫と死の匂いだけを残して消えた。生き残った者たちがもたらす話は、あまりに恐ろしく、多くの者は信じることすら拒んだ。
しかし現実は、否定を許さなかった。
やがてアビスの影は大陸の一部を飲み込み、そこには昼でも光の届かない漆黒の領域が広がるようになった。大陸の盟主たちは初めて重い腰を上げ、人類として結託してアビスに対抗することを決める。
だが、人の手で組織した軍勢はことごとく押し返された。策を尽くし、血を流し、それでもアビスの闇は後退しない。希望が潰え、人々の目から光が消えかけたその時——世界は、答えを示した。
絶望が大陸を覆い尽くそうとしていたある日、一人の人間の中に、見たこともない光が宿った。
傷を癒やし、魔を祓い、闇そのものを溶かす力。それはいかなる武器とも、いかなる魔法とも異なっていた。神官たちはその光を見た瞬間、膝をついた。これはロータシアの加護だ、と。女神は世界を見捨てていなかった。ただ、人々が本当に必要とする瞬間を、静かに待っていたのだと。
光の知らせは燎原の火のように広がった。諦めかけていた人々の目に、再び意志の炎が灯る。押し返せる。まだ、終わっていない。その確信が、崩れかけた戦線を繋ぎ止めた。
光の力を持つ者は「勇者」と呼ばれるようになった。ロータシアの意志の体現として民に敬われ、アビス討伐の象徴として前線に立つ宿命を負わされた。
勇者は強かった。それは間違いない。だがアビスはさらに強く、深く、根深かった。
ある勇者は軍勢の奥深くまで切り込み、返らなかった。ある勇者は長年アビスを押しとどめ、老いて力尽きた。ある勇者は若くして散り、次の代へと聖剣を繋いだ。
歴代の勇者たちが命を燃やし、その意志と知識を後継者へと受け渡すことで、人類はかろうじてアビスの完全支配を免れ続けた。しかし「討伐」には、遂に届かなかった。
長く続く対アビス戦争は、アルカディアの社会そのものを静かに、しかし確実に変えていった。
戦いに赴いた者たちが帰らない。それが幾世代にもわたって繰り返された。残された者たちは田畑を守り、子を育て、次の世代を戦場へと送り出した。街の広場には女性と老人と子供の姿ばかりが目立つようになり、男の声が少なくなったと老人たちは語る。
やがて女性たちもまた、戦場へと出るようになった。最初は後方支援だった。やがて中衛へ、そして最前線へ。魔法の技術が進歩し、体格の差を埋める戦闘術が確立されるにつれ、前線に並ぶ女性戦士の姿は当たり前のものとなっていった。
聖歌の担い手も、巫女も、戦士も、今や性別の問いなく戦列に並ぶ。それがアルカディアの、長い戦争が作り上げた現実だった。
幾世代もの血と祈りが積み重なった末に、ついに時は来た。
光の勇者が、最後の魔王アビスの胸元を聖剣で貫いた日。それはアルカディアの、長い長い夜が明けた瞬間だった。
しかし、勝利の光が世界に満ちるその陰で——世界の深い亀裂の底で、何かが静かに、息を吹き返そうとしていた。